『箱の中』にモデルはいません。

 『箱の中』とは、堀川成美名義で平成11年に(厳密には平成10年12月に)東洋出版より発売した小説です。執筆は平成7年の大学院修士課程2年の時に書きました。その後すぐに『すばる文学賞』に応募し、三次予選を通過しましたが最終予選には残らなかった作品です。審査にあたった一人がルール違反をして直接激励の電話をかけてきたけれども、その時に受賞したのは『いちげんさん』という作品でした。
 咲花名義でアマゾン(キンドル)より電子書籍刊行もしています。

 本題。
 モデルはいません。
 舞台まわしで視点人物の海辺真理子は友人に、その教え子平田一志は塾で教えた子に「感じ」のヒントはいただいていますが、他はいません。海辺に関しては直接本人に「参考にさせてもらった」と言っています。しかし彼女は教師でもなく、名前も特徴もかぶるところはありません。
 小説の最後に「フィクション」の断り書きもしていますが、どうしても、自分がモデルと思いたい人がいるようなので、あえて「モデルはいません」と書いておきます。
 このモデルがいない、とか、創作の裏にかかわる部分を断る場合、どこまでを明かすか、というのはかなり勝負なところがあって、遠まわしに断るか、一切黙っているかのどちらかしかないようなところがあり、なぜかというと作品の裏というのはまず明かすものではなく、さらに、断るときに作品のあらすじを明かすこともあるからです。
 なかなか難しいところです。

 

 今特に問題にしているのは冒頭に登場する「菊川寛」という人物で、命名の由来は「川の向こうにいる先生に花を捧げて」で名字を作成し、「寛」に関しては菊川が決定した時点で、小説家で「文藝春秋社」を興した実業家の菊地寛から名前をいただきました。親が会社を経営しているという設定だったので、あやかってつけたということで「菊川寛」という名前にしてあります。「菊地寛」自体は芥川龍之介の友人でもあり文学史上有名な作家なので、「菊川寛」という名前を見た瞬間に「菊池寛」を連想するはずだと思いながらつけた人物名です。そこから何ら別の意味合いを持たせたわけではありません。
 また冒頭のバイク事故に関しては、わたくしが教習所に通っている時(やはり20歳ぐらい)に竜神スカイラインで最初に起こした事故がバイクだったというのをきいて、それを参考に設定したものです。
 菊川の母親がふくよかな女というのは、要するにシミュレーション上で欲した特徴で、確かにふくよかだけれども、役員を置くような規模の夫の会社の、その役員ができるほどには理知的な人物だと思っていただきたい。

 

 作品自体は二十歳頃には交換日記の応酬の部分はできあがっており、大方のあらすじも決定していました。しかし、数あるストックの中でそれを書こうという時には、何かきっかけがあるものです。それがオウム真理教事件であり、『箱の中』はそのオウム真理教事件の井上嘉浩元死刑囚が、メモで、学校を「箱」に例えているところから着想を得て執筆を始めた作品です。
 ここまでは今までにも書いてきたところ。
 「死から始まる物語」はそれに加えて作品の構成上、主題の上でも、実験上でも必要としたから死から始まるのであって、誰かを殺したいとかいう思惑で書き加えたものではありません。

 

 作品モデルというのはなかなか難しいもので、現実に生きている人物を作品に入れる場合、ほぼそっくりエピソードごと書くのでなければ矛盾が生じてしまうので、本当に日本の「私小説」(坂口安吾のいうところ「大人の作文」)的に記述するのでない限りはその中にまんま投入できない場合が多く、私の場合はせいぜいイメージモデルという感じです。
 ところが世間の人は、特に魅力ある作品に対して、いくつかの共通点を発見してモデルだと言いたがるもので、たとえば谷崎潤一郎が昭和五年の「細君譲渡事件」の後で昭和三年の『卍』のモデルは不在であると断り書いたように、割と安易にモデルがどうのと言いたがるもののようです。しかしそれが、「こしらえもの」がよくできている評価のうちならまだいいけれども、あまり過ぎると虚構を「こしらえる」能力を低く見られているとも感じられ、あまりいい気はしません。場合によっては社会性や創作哲学などを想定した次元の高いものを目指したはずなのに、違う実在人物にイメージをぬりかえられかねない。

 

 この文章を書いている理由は、相違点の方が圧倒的に多いにも関わらず、自分がモデルのように勘違いしている人物がいて、その相違点部分まで似せてきているので、あえて断りをさせていただいた。
 あとからバイクの免許をとったり、もともと太りやすい体質だと言っていたのに「やせぎす」であるように努力したり。
 エピソードに関しても、周囲を嗅ぎまわる以外何もかぶるところはないのに。
 公に向けて発表することを想定した作品は、自分の周囲の些末な事情を写したりはしないと私は考える。そんなことをして、誰がその事情を知るのか。それ以前に、いったいそれになんの意味があるのか。
 小説を書く「私」は、「公的な私」である。
 「日記」じゃあるまいし、「手紙」じゃあるまいし。
 作品の中では「日記」や「手紙」でさえも、公に発表することを想定して書くものであるけれども。

 

 似てたって、それは偶然。むしろ、違う部分の方が圧倒的に多い。
 もしこの先、その彼を本当に写す小説を書くことがあるとしたら、何らかの誤解を解くために丁寧に説明する必要が生じたときだと私は思う。個人的にはそんな日が来ないことを祈る。

木を見て森を見ないツケツケ法師

 安倍氏のいなくなった自民党に、あまり加勢する気にはなれない。第一この問題は別に自民党に限ったわけではない。もしかしたら政府に限った問題でもないかもしれず、日本全体に言えることかもしれない。

 

 母親が昨今のCMを見ていて一言言った。
「なんで洗剤のコマーシャルは男ばっかり出てくるんや。」
いや、きっと洗濯は男の役目なんですよ、とは言わなかった。ひょっとしたら男の役目なのかもしれない。最近はそれに違反して、女性がやっているのかもしれない。
 違う。
「そういう団体から『家事は女の仕事なのか』と抗議が入るから、それに配慮しているだけやと思う」と答えた。

「まーくだらない。」
 最近では部活に舞台を置いてみたり、撮影現場に舞台を置いてみたりと工夫されているが、あまりにも洗濯洗剤や食器洗剤のCMに男性が多く起用されているのが目につく。抗議されていちいち言い争うのも面倒なのでそうしているのだろうが、はっきりいって実が伴っていない。実が伴っていないのにCMだけ変えりゃいいってものでもないだろう。
 逆にこう聞いてみたくなる。
「女子は洗濯したらいかんの?」

 実は私も数年前に、元校長がブログをやっていて、あるスポーツ選手の名前を間違えていたので、ブログで注意さしあげた。「世知辛い世の中ですから、いつ炎上するとも限りませんし。」

 日本という国は、いつからこんな息苦しく自由のきかない国になったのか。
 うるさい一団体の抗議の細かいことにツケツケいうのに耳を傾けている。しかしそれは全体の意見なのだろうか。
 この小さな小さな市井の例と一緒にしてはいけない、と言われるかもしれないが、市井の基準で政治をはかっている現状はいかがかと思われるのも事実である。
 数年後にこれを読む人のために一応復習すると、2022年7月8日、白昼、参議院選挙の応援演説のさなかに安部晋三元首相が自作の銃を持った男に背後から撃たれて死亡した。男は男の母親が統一教会という教団に過去1億もの寄付をしたために、人生を狂わせられたとして教団に恨みを持ち、その関連団体にビデオメッセージを送っていた安倍晋三氏が教団と関係していると思い、安倍氏を狙ったと供述している。これを書いている現在は精神鑑定の途中で、これが本当の狙撃理由かは、その結果をまたねばならない。
 統一教会とは多額の寄付を要求するカルト団体と言われていた。時価数万円の壺を数百万円で買わせたり、自宅を売ってまで金を寄付させたり(したり?)する、という行為を行っていた。件の狙撃犯も、それで母親が教団に寄付をしたために父親亡きあとの兄弟が悲惨な状況におちいったという。それは20年ほど前のことであり、現在はそういった寄付などが行われているのかは、私は知らない。名称を変更して云々の話が出ていたが、行われていなければ名称変更も認められたのかもしれない。
 大方その寄付に際し、みなが口をそろえていうのが、「こんな壺何百万もするわけないじゃない」というのだが、原価の話をすれば陶器などというものはどれも数百円数千円でできる。これはブランドものの衣服も同じことで、付帯価値が伴って価格はぐんぐんあがっていく。おそらく名工やブランドの価値がわからない国や部族にもっていって、「この陶器1千万するんだよ」「この服百万円だよ」とか言われたら、「はあ?」と目をむく、それが付帯価値というものである。故に、「この壺は教会にとっては〇百万です」といえば、それは通らない理屈ではない。詐欺でもない。付帯価値というのはそういうものである。
 問題は名工やブランドの品にはそれ相応の相場というものがあるが、宗教に関する相場として、それが「妥当か」ということで、当然ながら妥当ではないかとも思われる。一般的な宗教のものとしては高すぎるきらいはある。ただそれに金を出すかは、個人の自由だ。
 おそらく世界中にあるそうした理屈を巧みに利用しながら、教団に金を集めたのであろう。と、考えて行くと、問題の所在は果たしてこの付帯価値や寄付にあるのかという疑問はあるが、ほかの機会に譲ることにする。

 

 さて、これを書いている今何が問題にされているかというに、政治家とその教団との関係が問題にされている。これものちに読む人のために書いておこう。知らないあなたはドキドキしながら読んでほしい。
 政治家が公金を使って大量に寄付をしていたのか。
 参議院選挙に立候補し、その教団の信徒であることを隠して参議院議員になっていたのか。
 実は安倍晋三銃撃の裏には教団がいて、教団が指示したことなのか。
 選挙戦の時に教団信徒を教団から雇うように言われて雇い、賃金を支払ったのか。
 教団の信徒に金を払い、一票を金で買ったのか。
 読んでいておわかりだろうが、上記はすべて法律に抵触する。二番目を問題にすると、信教の自由について問題となりかねない。たとえ選挙で同じ教団員が応援していたとしても、たとえば私なんぞは自分の家が檀家になっている寺があって、そこに立候補するなんて話をしたら、おそらくご住職は「うちの檀家さんから立候補されるそうです」なんて話をして、みんなが「じゃああの人にいれよう」なんて話になったのとどう違うのかと聞かれたのと同じじゃなかろうか。あなたはどう違うと言うかという話になる。(違いを説明せよ)
 しかし今世間で問題になっているのはそうではない。世間で問題になっているのはこうである。
 じゃじゃーん。
1 数百人いる選挙ボランティアのうちの数人が教団員だった。(えーっ)

2 教団の関連団体の主催する会に出て挨拶した。(えーっ)

3 …あとなんだっけ?
法律に違反しているんですか?
違反してたっけ?
道義的責任に問われるんですか?
問われるんかなあ?

 (やばい、書いててだんだん馬鹿らしくなってきた。)

 まあ何らかの団体の会で壇上にあがって何かいうとか、いったいその議員にとっていくつあるうちのそれなのかが全然わからないので、…でもたとえたった一つであろうとも、思想信条の自由とか信教の自由とかは憲法で保障されているよね。大方与党をせめる憲法信者ならむしろ詳しいと思うけど。彼にとってお世話になった人に頼まれたりしたら断われないだろうし。票や指示にかかわるのなら、どこへでも出かけていくだろう。それも日常の大量にある活動の中の一つではないかと思う。
 たぶん問題は、過去に多額の寄付をさせた団体であることだと思われるが、その問題は政治家が壇上に立ってしゃべるのをやめることで解消されるのだろうか。「寄付を多額にしてしまった人の被害者としての家族」心情としては、「味方しないで」と不快には思うだろう。私なぞも大阪府の教育を荒らしまくったと思われる橋下徹が出ている番組は腹が立って絶対見ない。SNSで声をあげて書いたところでテレビ局は無視して出し続けるので、じゃあ取り上げてもらうには橋下を起用するプロデューサーを殺すしかないかな、プロデューサーでは世間にインパクトがないので、ほかの出演者を殺すべきかな、とかいう極論になる。
 つまり、世の中は個人にとってこういう憎たらしい人やことであふれている。
 しつこく教団と政治家との関連を報道し続けるテレビ局員にも、そういうのあるんじゃないの?
 
 話を戻そう。
 一部の関連をツケツケと上げ連ね、国の一大事のように言っているのを見て思うことは、日本という国は、本当に息苦しい国になってしまったなということ。
 ただ政治に関して非常な危機感を私が抱いたのは、それに関連しているだけで鬼の首をとったように騒ぎだすこと。教団信徒に下心はあったかもしれぬ。そりゃあるだろう。なぜ与党の議員にそれが集中するのか、政府に近い党の議員にそれが集中するのかといえば、もし、ただの知り合いとか誘われただけとかいうのでないのならば、やはり下心があったからだろう。大方ボランティアが集まるのは、そういう気持ちが反映されるからだ。「この人を手伝うことで自分の意見を国政に反映してほしい」「何か困ったときにその力で助けてほしい」その人たちと教団信徒の思いにどれだけの差があるか、私にはわからないけれども、選挙ボランティアというものはそういうものだ。無心でありえるはずがない。
 そこに人が集まるのは、その人が権力に近いからだ。
 そこに人が集まるのは、その人にそれだけの能力があるからだ。
 おそらくどちらかだと思う。
 今の報道は、それが法や道義的にどれほど問題なのか疑問が残る中で、ただ「関連した」情報と映像だけを流して、さも大事件のように取り上げるイメージ戦略を行っているが、政治家というのはそれだけでできているのだろうか? それだけが仕事なのだろうか?
 むしろそうした「関連」で政治家をつぶしていくことで、力のある人たちを引きずり下ろし、力のない人たちを上にあげることになるのではないか。そうすることで何がしたいのだろう。
 日本という国をダメにしたいのか。

 後にこれを読む人たちは参考にしてほしい。これは連日朝から夕方まで昼時間帯のテレビのワイドショーで取り上げられた。結果岸田内閣の世論調査での支持率は20ポイント近く下落してしまった。日本にはまともな政治家がいないとまでネットで書かれている。たぶん私の考えでは、視聴率がとれるからやっているのだろう。夏休みでコロナ禍で出かけられないとすれば、みんなテレビ見るよ。それが視聴率の裏かもしれない。どちらにせよ奴らはたぶん日本という国がどうなろうとどうだっていいんだ。メルヘンチックに考えれば、裏から日本をつぶそうとしているどっかの国が暗躍しているとも考えられるが、まあそれはメルヘンだよね。
 亡国のメディアだ。
 ネットでは「駄目ディア」とか「マスゴミ」とか「カスゴミ」とか言われて久しいが、それをインターネットの市井の声で修正できないのも、またネットから出てきた連中がテレビ側についてもの申す情けない状況なのも、事実だ。
 またその垂れ流される情報を信じて疑いもせず、「岸田内閣はダメだ」「与党はダメだ」「元統一教会に関連したからダメだ」とか、それですべてを評価する。垂れ流しに踊らされるのは戦前の日本と同じ状況じゃないか。この分だと「さあ、武器を作れ! そして武器をとれ! 戦に行こう!」とテレビ新聞ネットからイメージ戦略で「理由」を垂れ流され、誘いかけられたら、戦争が起こる日も遠からず来るだろう。
 日本とは戦前から、今も、そういう国だ。
 昭和天皇禄では、昭和天皇は開戦へと突き進む世論に抗することができなかったと述べている。歴史家の意見も大方それに賛同しているらしい。
 東京日日新聞(現毎日新聞)と朝日新聞にあおられて開戦へと突き進んだ。
 本当に、全然、反省できていない。もっとよく考えてほしい。

こんにちは

 お久しぶりです、誰か来てますか?
 名前を変えてツイッターをやっていました。
 そのためここには書き込んでおりませんでした。

 新ツイッターは「武藤由香里」名義で書いております。
 それとお断りです。
 私は2ちゃんねるにも5ちゃんねるにもストーカーのことはもう何年も書いておりません。

 ていうか、「〜されている」などと一人称で語ったことはたぶん皆無じゃないですかな。

 ということをご承知下さい。
 それで「あのブログ」が消えたら面白いであうけど。

教員免許更新制度廃止

 教員の「十年免許更新制度」が廃止されるらしい。
 何度となく書いてきたことだけど、おそらくこれを最初に提案したのは私だと思う。そしてたぶん誰もそれを認めないだろうが、それでも私だと思う。
 名前をさらして提案したのではなく、それは匿名であった。
 かつてはYahoo‼に匿名掲示板があった。それは確か2000年頃。一時期黎明期の2ちゃんねると並んで匿名掲示板としてにぎわったが、匿名であるがゆえに手を焼いたのか、廃止された。インターネットの接続はやっとISDNからADSLへ移行し始めた頃だったかと思う。
 自分で勝手に項目を作ることができたので、教育のカテゴリーにそのまま「教員免許十年更新制度」というタイトルで作った。
 その理由。
 私が最初に勤めたのは私学の高校だった。非常勤講師で、非常勤でさえ職があれば「どうやってみつけたの?」と言われるほど、教員も就職氷河期だった。その時着任した私学は最底辺の学校だったが私に与えられた授業時間は当時一週間で17時間、種類6色(7色?)、一度も繰り返しがない、と書けば、同業者なら目をむいて驚く、とんでもない時間割だというのがわかるのだが、うち二つは単独コース3年3組の古典と現代文で、一緒に組む先生がいない。「非常勤に」「同じクラスの古典と現代文を」一人でもたせる。何かあった時は誰もフォローする人がいない。それを教育実習以来初めて学校の先生をやる人に振ってくる教諭たちときけば、なんとなくレベルの程をうかがい知ることができるのではないかと思う。
 つまりは教諭が持ちたくない3年3組をもってもらい、楽をするための非常勤講師なわけだが、その先生たちの中身をうかがうと、まず考査問題が自分で作れない。他の先生に教えてもらいながら作っている。普通にベテランという年齢。次に指導書を見ながら授業をしている。そして、教科書。偏差値30台で進学校の教科書を持たせている(古典は源氏物語大鏡だけが入った購読用のテキストだった。わけがわからない。)。関関同立は特進で二人しか受からないのに、なぜか国公立用の問題集を使っている。当然生徒は問題を解いても3割もできない。
 アホ?
 ということを、まだ顔色をうかがうなどということを知らなかった私は正直に言ってクビを切られたのだが、クビを切られてよかった、切られなきゃズルズルとその変な学校で続けてたでしょうと友達にまで同情されたという、そういう教員たちであった。
 つまり私が教員免許更新制度を、と提案したのは、教師自体に基礎学力や判断力が欠けていて、それをはかるためのチェック機能を、ということで提案したのだった。
 ただちょうど同じ頃、公立学校において教員の学力問題というのが世間でも話題になっており、数学の先生なのに分数が解けないとか、高校の入試問題が解けないとかが問題にはなっていた。なぜそんなに学力が低かったかというと、原因は「教師にでもなろうか」「教師にしかなれない」という、いわゆる「でもしか教師」が大量に採用され、学力のない教師が教師陣の中に多く混じっていたからだった。今のおおよそ60才から上の世代である。私学でも教員が足りず、4月になっても組まれた時間割にまだ先生がみつからなくて、担当教員がAとかBとか記号表記だった時代でもあった。
 
 しかし問題になってからは、当時教育委員会がそれなりに教師たちをチェックし、教員から事務への配置替えだのの策を講じ、更新制度が文部省から出された時は、必要ないとの声も上がっていた。そしてそういう力のない教員をチェックする制度かと思ったら、開けてびっくり、ただお金を3万円自腹でだして知っていることをきく意味のない講習を受けるだけのものだった。
 講習をする先生によっては前置きに「先生方の方がお詳しいかと思いますが」と前置きをすることさえあった。一体何のために受ける講習なのだろうと思いながら受けている人多数で、「教師の学力のチェック機能」という側面は皆無だった。多くの教師たちの時間と金の無駄でしかなかった。
 それどころか大量採用世代が去ったあと、入れ替えにまた大量に若手を採用し、大阪では倍率が2倍を切る状況で、筆記試験3割とか4割とかいう先生が、面接点優位の中で大量に採用された。結果、小学校高学年の勉強ができる生徒に対応できないとか、古典文法に自信がない先生とか、教えられないとか、上位校の入試問題が解けなかったり指導が出来なかったりする先生がいて、底辺校以外にまで配置されているという状況になっている。かつての学力不足教員を生んだ時の教訓は何も受け継がれなかった。塾とは違い、学校は基礎の学習を重点的にする。ところがこれでは基礎ができていない上に何かを積もうとするようなもので、学力低下は当然の結果といえる。
 ただし2倍を切っているのは若手だけで、経費の問題からかゼロ採用世代、いわゆる教員の就職氷河期世代からは積極的に採用せず20倍を超す難関になっていた。しかも採用しても部活や生徒指導重視で、それなりに授業力や生徒対応スキルを磨いて生き残ってきた他の人たちは若手の学力不足に正規の座を譲り、今も非正規に甘んじることになっている。私の知る限りでは、現役で生き残っている教師経験者は全員無試験で採用してもいいぐらい優秀な人ばかりなのに。

 その先生たちも多く廃業したり私学に行く先生が増え、現状大阪府では非常勤講師がみつからず、再任用が終わった退職教員に頼る状況である。ただしそれは免許が切れただけでなく、安いせいもある。スーパーやコンビニその他時給1000円の所を6時間働くのと、要資格なのに授業に週15時間入るのと同じ額だし、学校の夏の暑さ冬の寒さは厳しく、さらに広い教室で大きな声を出して体力を使うことは教育実習に行った人なら誰も知っているので、そんな安い非常勤なら学校以外の職につき、教員免許も更新しなくていいわって話になる。
 ブラックという噂が浸透しているので、余計に誰も教員になりたがらない。
 だから、廃止になるのかは甚だわからないけれど、廃止をしても講師のなり手の少なさには手を焼くような気がする。現役教員たちの「無駄な時間」が減るのは歓迎すべきところではあるけれど。(理由はこっちかな…)

 私が受けた更新講習で一つだけ新しく学んだといえばメディアリテラシーに関する講義で、美川憲一の「ヨイトマケの唄」に関し、長い間放送されることを避けられていて、ところが避けられていた理由を問うと誰も知らないので、数年前の紅白で歌うことになった、という話。あのテレビという業界は3年もすると異動になり、次の人に申し渡しをして異動するものの、細かいところなんか伝達せずに申し渡しするので、なんでそれがダメになったかとか消されたかとかわからないまま次々に引き継がれていくケースが結構あるのだとか。「ヨイトマケの唄」もそれの一つだったらしいのだが、それじゃブラック校則と同じで、当時の事情と変わってしまったり、担当者がちょっと変わり者だったりおバカだったりすると、不要なものが残ったり必要なものが消されたままになったりするんじゃないの、なんて思ったものだった。
 ダメなことを続けてしまっているために、テレビがつまらなくなったんじゃないの、と思わないでもない。
 ちなみにこの話がその後授業で役に立ったことは一度もない。

三観点別評価~そして生徒がアホになる~

 朝一時間目に教室に行くと、エアコンはついてるんだけど、外気温が低いせいかきかなくって、生徒が窓を解放している。生徒はそれでへっちゃらそうなんだけど、マスクして窓開けられた状態で大声だして動き回りながら黒板書いてしゃべるこっちはとんでもない。マスクの中を汗が流れ、背中を汗が流れ、頭の中を汗が流れ、その汗を一日ひきずるもんだから、何か暑いところへ至るとまたどーっと汗。特に国語の先生はしゃべる量が半端じゃないので汗、汗、汗。アイシングで調整するけどそれにも限界がある。

 だもんで平日は大方疲れすぎないこととの闘いなんだけど、やっと四連休に入り、家でエアコンにつかりながら、もしかして世間様には汗もかかずに一日を過ごす人が、たんといるのではないかとふと思いついた。
 いいよね…。どうりで旅行の計画を立てるゆとりがあるし、動く元気もあるわけだ。
 ないのよ、四連休中の予定が…。昨日は一日寝てた(倒れてた)し。

 

 ところで皆さん、学校の成績の付け方(評価の方法)が変わるのを知っていますか?
 三観点別評価ってやつです。
 今それで現場は頭を相当悩ませていましてね。
 三観点別評価とは…おバカ大量製造評価ってやつです。
 まあ私学はいいですよね、やってなくてもやったって言えるから。問題は公立かな。
 困るのは古典。
 何のことかわからない人のために簡単に説明しますと、学期ごとに通知表を出して成績をつけるじゃないですか。その成績を大方は(中間考査期末考査)/2×0.8でまず80点をテストから出し、残りを提出物なんかの平常点でつけて100点満点にしてたわけですよね。
 その成績の付け方を三観点別評価で出せっていうんですって。

 三観点とは1、知識・技能、2、思考・判断・表現、3、「主体的に学習に取り組む態度」なんだそう。
 1、とは普通に暗記もの。2は国語なら暗記ものではなく、設問や作文、小論文。3つめは一体なんじゃらほい、という話になっている。

 で、「3、主体的に学習に取り組む態度」については結構他教科の先生もブツブツ言ってて、「自分から手を上げたら得点にするの?」とか「当てて答えられたら得点にするの?」とかいうんだけど、手を上げた人数をいちいち教壇から数えるのか、とか、そしたらわからなくても手を上げたら点数じゃないか、とか、当てて答えるのはいいが、きいた内容の難易度に差がある場合易しい質問のA君と難しい質問のB君を同点にするのか、とか問題が噴出。じゃあもう今まで通り提出物で判断するのが一番公平かという話にもなるんだけど、主体的に学習に取り組むってそこを狙ってるのではないんじゃないか、と言う意見もある。そもそも数字化すること自体がナンセンスって話も。
 この3をもし今つけている平常点と同レベルに扱うとすると、三観点それぞれ33点ずつにしなきゃいけないそうなので20点のところが33点になる。おおよそ学校ランクが下がると平常点の割合が高くなるものだが、学校によっちゃ提出物さえ全部出せば欠点じゃないって学校もある。(つまり平常点が40点)。
 テストで何も覚えなくてOKってことだ。
 そしてさらに、古典という教科で問題になるのが、「2、思考・判断・表現」を入れろって話。古典という教科は、自力で読んで何かを考えられるようになるのは、よほどの進学校ではない限り、3年の終わりぐらいに受験を考えている子はできるかな、って程度で、大方1年や2年の間は、語の意味や文法を覚え、それによってある程度現代語訳が出来るかなという学習が大半を占める。つまり中間や期末考査でのテスト問題のほぼ100%がこれを問う「1、知識・技能」の問題なわけだ。
 ところが1、知識・技能と、2、思考・判断・表現を、同じ割合(33点ずつ)で点数化しろと。

 2なんて1,2年の間ほとんど誰もできない。苦肉の策としてものすごく易しい小学生でも書ける意見文を書かせるか、前もって課題を出しておくか。でも、古典なんてその基礎部分を覚えないとなんの力もつかないのに、それが33点分しか配分されず、小学生レベルの2を無理矢理押し込んでそれに33点とかつけると、結局古典の「学力」に相当する部分が今の比率の考え方の80点が33点になってしまい、平常点相当66点とか最底辺校でもありえない点数配分になってしまう。
 ていうか、考査があるから生徒も一生懸命覚えるわけで、その考査が33点分しか配分されないとなると、下手すると古文の読みと文学史的事項さえ覚えてくれば10点とか平気でとれちゃうから、基礎学力が崩壊していつまで経っても習熟できないという恐ろしいことになる。
 古典が生活や受験にいるかどうかの議論はまずおくとして、これが古典に限ったことではなく、社会も、理科も、そして英語も、同じようなところにはめこまれることになる。あるいは数学や物理なんかだと、2の範囲がべらぼうに広い(おそらく進学校はそうだと思う)のに、それがぎゅーっと狭められるか、極論100点のテスト作って33点まで狭めるかという話になってしまう。
 なんでこんなことするん。
 中学では既に始まっているというが、だから高校1年で「平安時代はいつ始まった」ときいてもおおよそ答えられないのかとさえ危ぶむ(いや、これは10年ぐらい前から既にそうなんだけど)。
 文科省は何を考えているのか。
 つまりこれはアクティブラーニングの延長線上にある話ではないかと思う。能動的学習ってやつね。1を基準にものを考えましょう、書きましょう、議論しましょう、ちゃんと点数化して評価にいれましょう、つまり現場にそこに取り組めよといいたいのだろうのだが、1が頭に入ってないのに何を考え、何を書き、何を表現するのかと聞きたい。知識もなく言葉も知らないで表現するのなら出てくる言葉はパクパクでしかない。
 じゃあ実際日本ではそういう授業はしてないのか。
 してるよ、2年、3年の演習や表現の授業で。
 でも大方選択で、授業人数は20人ほどですよ。しかもちょっと難しい課題を与えると、書き物はほとんどがネットのコピペの練習にしかなってない。(人はこれを剽窃という)調べ学習なんてそのコピペの予備訓練だべ?

 欧米は取り組んでいるからというんだけど、欧米の一教室に入っている人数は20人ほど。だからできるんであって、一クラスに40人も入れておいて、さあ書いたものを先生がチェックする、しょっちゅうそんなもんやっていたら原稿用紙一枚読むのに3~4分はかかるのに(美しい字で書かれていた場合)、5クラスも6クラスも担当していたら、先生は次々に死んでしまいます。議論も20人なら「今誰が発言した」とその都度チェックしていけるけど、40人もいる。残念なことに日本と言う国の生徒は多くシャイなので、発言できる子供、普段から知識抱負な子供しか発言できないので点数も偏る。もっと残念なことに、シャイで発言しない子ほど学力も高い傾向にある。

 今の学校現場の三観点別評価に対する意見のおおよそは、やってみて全国の学校から失敗と批判と疲弊の声があがって、今回のカリキュラム変更とも合わせて、今回も、「バカでした、ごめんなさい」と文科省が気づくまで待つしかないということになっている。共通テストで中止になった部分なのに、それを少しも学習していない。気の毒なのは「ゆとり」と同じくまた「三観点別」という世代が生まれてしまうこと。
 この国を先進国へと押し上げた学習方法はなんだったかと、一度振り返ってみる必要があるのではあるまいか。それと、文科省は現場に半年、しかも直接学校で学習に関わる経験がなければ、それぞれ係長、課長、部長に昇進できない制度でも作ったらどうだ。
 どうして高い税金をつぎこんで、そんなに子供たちの学力を落としたがる。

「赤木ファイル」削除不明部分

 森友決裁文書、改ざん問題に関する「赤木ファイル」。

 今朝モーニングショーを最後の15分間だけ見ていたが、出演者のコメントが立花隆の話に流れてしまい、うやむやにしているように見えた。もっというならたいへん「歯切れが悪い」。
 あの「赤木ファイル」からは今後も何も出てきはすまい。
 ただ赤木氏が書き換えを拒んだのであれば、決裁文書そのものになんの問題もなく、取引自体も実は、なんの問題もなかったのではなかったかと思う。
 私が一番不思議に思うのは、取引の必要のない部分まで削除されてしまっていること
 あの森友問題の報道がなされた後で、あの部分が消されてしまうと、逆にそれが表ざたになった時に安倍前首相が不利になってしまう。
 取引自体はこうだった。


 当時該当の土地から新たにゴミが出てきた。
 学校は建設に取り掛かっており、開校時期も既に告知されていて、ごみの撤去で遅れると訴訟問題になりかねなかった。
 当時あの土地の所有者であった航空局は売却した他の土地での土壌汚染訴訟をいくつも抱えており、これ以上の訴訟問題を増やしたくなかった。

 上記の理由により、当初土地は賃貸契約を結んでいたが、値引きによる売却を森友側が持ちかけた。

 双方合意の上、大幅に値引きをする代わりにたとえその後土地に瑕疵が出てきても一切元の持ち主に責任を問わないという、瑕疵担保責任免除特約をつけての売却の運びとなった。

 この航空局が当時、多くの訴訟を抱えていたというのを、森友側がどうやって手に入れたかは知らぬが、「まだゴミがある」「訴訟を抱えている」、故に値引き、というのは相当有効な取引手段で、つまりは森友側の駆け引きの勝利であった。にもかかわらず、この取引をわかっていたのか、知って知らないふりをしたのか、朝日新聞が、書き立てて騒ぎ始めた、これがこの事件の発端だった。
 朝日新聞へのリークはどこがしたんでしたっけ。当時の加計学園とともに、どちらも学校が関わっているので、私は勝手に天下りを阻止された文科省役人が仕掛けたのだと思っていた。
 この改ざん自体のリークは検察がしたと言われており、この後に起こる検察庁に関わるいざこざで、ああなるほど、安倍政権をつぶしたい人たちがここにもいたのか、というのがよくわかった。


 問題が発覚するや、佐川氏がシラを切った。
 次に向かうべきは改ざんを指示した本人と改ざんをした本人かと思われるが、赤木氏は即座に自殺されてしまった。
 今でも前半の、値引きではなく、賃貸契約にあたってのいきさつを部分抜き出しでテレビで出されるが、あの部分は政治家たちが財務省に働きかけたと書いているだけであって、それ以上でもそれ以下でもなんでもない。むしろ、役所に対して自分たちが何等かの特別措置をしてもらう場合は、「そこまでしたなら」と他も納得するほどとてつもない働きかけをして、やっと動く、これが行政だと以前法律を勉強していた時に習ったことがある。一度や二度じゃダメ。一人や二人じゃダメ。故に森友側のあの並々ならぬ政治家への申し入れや働きかけは、決裁文書に書いて当然だし、役人も書かなければいけない。ある意味あれが、賃貸契約へとこぎつけさせた森友側の「努力の跡」なのだ。消してはいけない。
 安倍氏の答弁を見る限り、桜を見る会前夜祭の会費の集め方がわかっていなかったと同様、決裁文書の存在自体を本人が知らなかったと思われる。かつてどこかで書いたことがあったが、こういうものを知っていたのは役人出身の政治家ぐらいではあるまいか。政治家の事務所であそこまで丁寧にいきさつを残すことはない。
 それを「ない」と言ったのは佐川氏で、直後に削除の指示が入った。
 つまり改ざんは、佐川氏をはじめとする財務省内部の問題であって、多くの名誉校長を受けている安倍氏夫人がもう一つ名誉校長を受けていたとか、そのために尽力したとか、多くの政治家が陳情に関わったからといって、改ざん問題に政治家を絡ませるのはかなり厳しい話。

 ここからは私見であるけれども、赤木氏が自殺したのは、籠池氏のようなマスコミの標的になるのを恐れたのが最大の理由ではあるまいか。もし決裁文書が書き換えられず佐川氏が「ある」と言ったところで、悪意を持って報道する側が、かいつまみ、間違えて、肝心なところは理解せずに報道すると、やはり赤木氏と「ありもしない政治家との癒着」でひどいマスコミの追及にさらされたのは想像に難くない。
 ちなみに売却と値引きの経緯(かけひき)はうやむやにされたまま、なぜ大幅値引きされたのかを知らない国民は多く、未だに「忖度」だと思っている。なぜか。報道する側が誰も訂正していないからだ。
 問題は、佐川氏がなぜ「ない」と言ったのか。その理由も、上と同じだと思うけど。つまり「悪意を持って報道する側が」の一文の「赤木氏」の部分をそれぞれに置き換える。ないものをあることにされてしまう。現に今朝も「かいつまみ」は、安倍昭恵氏の決裁文書の部分引用と、安倍の国会答弁の映像を使ってやっていたし。
 
 あの森友学園の土地というのは、そもそもが軟弱地盤で、高層ビルは建てられない。もっというならあまり重いものは建設できない。利便性と言う意味ではいい土地だけれど、裏が高速道路なので民家を建てるのもどうかという場所。小学校などを作るのが最適だったようにも思う。次が公園。
 巨大な建物を建てるためには、ゴミ撤去のための掘削と地盤補強にたいへん手間がかかり、しかも現状小学校の建物が建っている上に、いわくつきの土地になってしまったので、はっきりいって不良債権以外の何物でもなくなってしまった。
 この国民にもたらされた「負の財産」の責任は誰がとるべきか。
 私はよく調査もせずにスクープ報道した、報道機関にあるのではないかと思う。あの土地建物ごと、買い取って、小学校を再開してもらってはいかがか。籠池氏などは訴訟を起こす権利はあると思うのだが、もはやその財産さえ失われた感はある。

 開校までの道のりで、補助金詐欺とかで逮捕されたけど、あれも道の途中なんだからあの程度の瑕疵はありじゃないのかね。裁判官までマスコミに「忖度」しているのかしらん。
 マスコミも間違えたって絶対間違えたと報道しないし、認めたところで「ちいさく」謝罪文出すだけなんだから、せめてスクープする前にもっと調査したらどうなんだろう。
 また人一人死んだんだよ、マスコミのせいで。
 今第二の「立花隆」が出てきたら、切るべき巨悪は政治家よりも、マスコミと官僚ではあるまいか。いやむしろ、ネットでさんざん切られているから、ことごとく歯切れが悪くなって、番組自体どれもつまらなくなっているのかもしれぬ。

変異ウイルス国内初の死者は、一体どこだったのか。

 結局一か月近く書いてなかった。
 実は裏アカウントでツイッターをしていますが、こちらで公開はしていません。
 疑問に思った記事をいくつか貼ってみます。

新型コロナウイルス神奈川県で全国で初の死者。

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新型コロナ変異ウイルス初の死者、新聞報道

 2021年3月16日。

 

 続いて大阪府で新型コロナ変異ウイルス全国で初の死者。

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新型コロナ変異ウイルス初の死者大阪

 2021年3月17日。ただし、死者が確認されたのは2月上旬。
 国に報告はしていたものの報道発表はしていなかった。
 これを私が知ったのはヤフーコメント欄の投稿によるけれども、神奈川の報道発表を受けて大阪府は発表したとのこと。


 変異ウイルスの感染力は既に言われていたところで、死者が出ていたにも関わらず2月23日に国に緊急事態宣言の宣言解除要請をしている。

【特集】緊急事態宣言を『前倒し解除』した大阪の吉村知事 当時の経緯を振り返る(MBSニュース) - Yahoo!ニュース

 

 今日現在オリンピック開催に際し、変異ウイルスの感染力の強さをして、たいへん危ぶまれる状況にあるなどという発言を聞くにつけ、この一連の大阪府の動きは一体何だろうと思ってしまう。オリンピックの中止を検討すべき案件の死者が出ている、しかも前年12月の検疫所での変異株初確認(厚労省発表)の中に、この確認された死者の「80代女性」は入っていないことから、国内で感染したのは間違いない。


 その後のすさまじい感染者数の増加と医療ひっ迫は記憶に新しいところだけれども、2月下旬に緊急事態宣言が解除された後に、大阪府はコロナ病床を減らすように各病院とセンターに呼びかけている。結果病床がひっ迫したときに、改めて病床を増やし、看護師の募集を呼び掛けたのだが、時既に遅しの感は否めない。

1、国内に変異ウイルスの死者が出ているにも関わらず、それを報道せず、緊急事態宣言解除を要請したこと。

2、感染力の強い変異ウイルスの死者を確認しながら、病床を減らしたこと。

 私は今回の大阪府の病床ひっ迫は、人災のような気がしてならないのだが。
 これはおそらく、大阪府の次の経済事情が、これ以上の経済のひっ迫と、休業各位への補償金が出せないという「焦り」が、原因だと思えてならない。

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府債残高6兆3400億円

 色を変えているところ。
 29年度の吉村知事の記者会見では6.1兆円だから、増えている。
 橋下徹元知事が借金をなくしましたと記者会見で言っていたはずだけれど、実際は借金は帳簿に記載義務のない府債に全部置き換えられたと言われており、借金は減っていないらしい。(実際地方債というのは自治体の借金だろう。)
 2012年に総務省に地方債を発行する際に許可申請をしなければならない「起債許可団体」に転落しており、18年にここから外れている。しかしもしかしたら今回のことで、また転落するかもしれない。いや、もしかしたら大阪府の「焦り」の原因はそれではないかとさえいぶかる。
 つまり、消えたはずの借金が実は別物に置き換えられただけで、しかも増えていて、それを世間に気づかれるのを恐れたとか。
 もしそうだとして、変異株の死者を隠し、病床を減らし、緊急事態宣言の解除を早めたのだとしたら…。

 これを見逃していい話題なのか、検討しなくていい問題なのかとも思うし、「次」があるのではないかと背筋が寒くなる。