三観点別評価~そして生徒がアホになる~

 朝一時間目に教室に行くと、エアコンはついてるんだけど、外気温が低いせいかきかなくって、生徒が窓を解放している。生徒はそれでへっちゃらそうなんだけど、マスクして窓開けられた状態で大声だして動き回りながら黒板書いてしゃべるこっちはとんでもない。マスクの中を汗が流れ、背中を汗が流れ、頭の中を汗が流れ、その汗を一日ひきずるもんだから、何か暑いところへ至るとまたどーっと汗。特に国語の先生はしゃべる量が半端じゃないので汗、汗、汗。アイシングで調整するけどそれにも限界がある。

 だもんで平日は大方疲れすぎないこととの闘いなんだけど、やっと四連休に入り、家でエアコンにつかりながら、もしかして世間様には汗もかかずに一日を過ごす人が、たんといるのではないかとふと思いついた。
 いいよね…。どうりで旅行の計画を立てるゆとりがあるし、動く元気もあるわけだ。
 ないのよ、四連休中の予定が…。昨日は一日寝てた(倒れてた)し。

 

 ところで皆さん、学校の成績の付け方(評価の方法)が変わるのを知っていますか?
 三観点別評価ってやつです。
 今それで現場は頭を相当悩ませていましてね。
 三観点別評価とは…おバカ大量製造評価ってやつです。
 まあ私学はいいですよね、やってなくてもやったって言えるから。問題は公立かな。
 困るのは古典。
 何のことかわからない人のために簡単に説明しますと、学期ごとに通知表を出して成績をつけるじゃないですか。その成績を大方は(中間考査期末考査)/2×0.8でまず80点をテストから出し、残りを提出物なんかの平常点でつけて100点満点にしてたわけですよね。
 その成績の付け方を三観点別評価で出せっていうんですって。

 三観点とは1、知識・技能、2、思考・判断・表現、3、「主体的に学習に取り組む態度」なんだそう。
 1、とは普通に暗記もの。2は国語なら暗記ものではなく、設問や作文、小論文。3つめは一体なんじゃらほい、という話になっている。

 で、「3、主体的に学習に取り組む態度」については結構他教科の先生もブツブツ言ってて、「自分から手を上げたら得点にするの?」とか「当てて答えられたら得点にするの?」とかいうんだけど、手を上げた人数をいちいち教壇から数えるのか、とか、そしたらわからなくても手を上げたら点数じゃないか、とか、当てて答えるのはいいが、きいた内容の難易度に差がある場合易しい質問のA君と難しい質問のB君を同点にするのか、とか問題が噴出。じゃあもう今まで通り提出物で判断するのが一番公平かという話にもなるんだけど、主体的に学習に取り組むってそこを狙ってるのではないんじゃないか、と言う意見もある。そもそも数字化すること自体がナンセンスって話も。
 この3をもし今つけている平常点と同レベルに扱うとすると、三観点それぞれ33点ずつにしなきゃいけないそうなので20点のところが33点になる。おおよそ学校ランクが下がると平常点の割合が高くなるものだが、学校によっちゃ提出物さえ全部出せば欠点じゃないって学校もある。(つまり平常点が40点)。
 テストで何も覚えなくてOKってことだ。
 そしてさらに、古典という教科で問題になるのが、「2、思考・判断・表現」を入れろって話。古典という教科は、自力で読んで何かを考えられるようになるのは、よほどの進学校ではない限り、3年の終わりぐらいに受験を考えている子はできるかな、って程度で、大方1年や2年の間は、語の意味や文法を覚え、それによってある程度現代語訳が出来るかなという学習が大半を占める。つまり中間や期末考査でのテスト問題のほぼ100%がこれを問う「1、知識・技能」の問題なわけだ。
 ところが1、知識・技能と、2、思考・判断・表現を、同じ割合(33点ずつ)で点数化しろと。

 2なんて1,2年の間ほとんど誰もできない。苦肉の策としてものすごく易しい小学生でも書ける意見文を書かせるか、前もって課題を出しておくか。でも、古典なんてその基礎部分を覚えないとなんの力もつかないのに、それが33点分しか配分されず、小学生レベルの2を無理矢理押し込んでそれに33点とかつけると、結局古典の「学力」に相当する部分が今の比率の考え方の80点が33点になってしまい、平常点相当66点とか最底辺校でもありえない点数配分になってしまう。
 ていうか、考査があるから生徒も一生懸命覚えるわけで、その考査が33点分しか配分されないとなると、下手すると古文の読みと文学史的事項さえ覚えてくれば10点とか平気でとれちゃうから、基礎学力が崩壊していつまで経っても習熟できないという恐ろしいことになる。
 古典が生活や受験にいるかどうかの議論はまずおくとして、これが古典に限ったことではなく、社会も、理科も、そして英語も、同じようなところにはめこまれることになる。あるいは数学や物理なんかだと、2の範囲がべらぼうに広い(おそらく進学校はそうだと思う)のに、それがぎゅーっと狭められるか、極論100点のテスト作って33点まで狭めるかという話になってしまう。
 なんでこんなことするん。
 中学では既に始まっているというが、だから高校1年で「平安時代はいつ始まった」ときいてもおおよそ答えられないのかとさえ危ぶむ(いや、これは10年ぐらい前から既にそうなんだけど)。
 文科省は何を考えているのか。
 つまりこれはアクティブラーニングの延長線上にある話ではないかと思う。能動的学習ってやつね。1を基準にものを考えましょう、書きましょう、議論しましょう、ちゃんと点数化して評価にいれましょう、つまり現場にそこに取り組めよといいたいのだろうのだが、1が頭に入ってないのに何を考え、何を書き、何を表現するのかと聞きたい。知識もなく言葉も知らないで表現するのなら出てくる言葉はパクパクでしかない。
 じゃあ実際日本ではそういう授業はしてないのか。
 してるよ、2年、3年の演習や表現の授業で。
 でも大方選択で、授業人数は20人ほどですよ。しかもちょっと難しい課題を与えると、書き物はほとんどがネットのコピペの練習にしかなってない。(人はこれを剽窃という)調べ学習なんてそのコピペの予備訓練だべ?

 欧米は取り組んでいるからというんだけど、欧米の一教室に入っている人数は20人ほど。だからできるんであって、一クラスに40人も入れておいて、さあ書いたものを先生がチェックする、しょっちゅうそんなもんやっていたら原稿用紙一枚読むのに3~4分はかかるのに(美しい字で書かれていた場合)、5クラスも6クラスも担当していたら、先生は次々に死んでしまいます。議論も20人なら「今誰が発言した」とその都度チェックしていけるけど、40人もいる。残念なことに日本と言う国の生徒は多くシャイなので、発言できる子供、普段から知識抱負な子供しか発言できないので点数も偏る。もっと残念なことに、シャイで発言しない子ほど学力も高い傾向にある。

 今の学校現場の三観点別評価に対する意見のおおよそは、やってみて全国の学校から失敗と批判と疲弊の声があがって、今回のカリキュラム変更とも合わせて、今回も、「バカでした、ごめんなさい」と文科省が気づくまで待つしかないということになっている。共通テストで中止になった部分なのに、それを少しも学習していない。気の毒なのは「ゆとり」と同じくまた「三観点別」という世代が生まれてしまうこと。
 この国を先進国へと押し上げた学習方法はなんだったかと、一度振り返ってみる必要があるのではあるまいか。それと、文科省は現場に半年、しかも直接学校で学習に関わる経験がなければ、それぞれ係長、課長、部長に昇進できない制度でも作ったらどうだ。
 どうして高い税金をつぎこんで、そんなに子供たちの学力を落としたがる。